バブル:日本迷走の原点 永野健二 新潮社 2016/11/18

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 私は自他ともに認める経済音痴なのだが面白く読んだ。事件史のような形式で一章が比較的短くテンポが良い。やや掘り下げが足りなく感じるがそれでこのボリュームなのだから、マテリアルが豊富で大きなテーマだということだろう。私はバブル期を体験しているのだが、書かれている事件の半分以上を知らなかったし、残りも皮相的な理解しかしていなかったことを感じた。それでもバブルが日本人の心性を変えたというテーゼは首肯せざるを得ない。日本の歴史におけるバブルの位置づけについて、より思弁的なアプローチが期待される。
 著者はNTT株上場フィーバーに触れ次のように述べる。「バブルは資本主義のエネルギーを増殖する。そして資本主義は、その功罪を運動のなかに巻き込みながら、深化し発展していくものなのである。」(124ページ)あまり賛成できないが至言と思う。この直感的な言葉を是非論証してみてほしい。

一投に賭ける 溝口和洋、最後の無頼派アスリート 上原善広 角川書店 2016/07/01

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石の虚塔: 発見と捏造、考古学に憑かれた男たち - はてなキーワード

異貌の人びと ---日常に隠された被差別を巡る - はてなキーワード

被差別の食卓 (新潮新書) - はてなキーワード

日本の路地を旅する (文春文庫) - はてなキーワード

聖路加病院訪問看護科―11人のナースたち (新潮新書) - はてなキーワード

 

 面白かった。溝口和洋さんは世代的には知っているべきと思うが、全く知らなかった。「最後の無頼派アスリート」が正しい呼称かわからないが、スポーツノンフィクションの格好の素材だと思う。にもかかわらず、知られていなかったという事実に日本のマスコミの性格が現れているかもしれない。取材者がヤワだったからか?
 主人公の一人称で綴ったのが著者の工夫であるが、それ以上に筆力の充実を感じた。私は上原ファンなのでバイアスはかかっているか、溝口のこだわりと繊細さを描くことに成功していると思う。上原が溝口に対抗する個性の持ち主だったかどうかわからないが、ジャーナリズムから距離があったことが幸いしたかもしれない。

1984年のUWF 柳澤健 文藝春秋 2017/01/27

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from 日本史を精神分析する―自分を知るための史的唯幻論 岸田秀, 柳澤健 亜紀書房 2016/12/24 - いもづる読書日記

 完本 1976年のアントニオ猪木 (文春文庫) - はてなキーワード

 私、プロレスの味方です―金曜午後八時の論理 (1980年) (Century press) - はてなキーワード

 

 「1976年のアントニオ猪木」は猪木信者の悪魔祓いの書だったが、本書の俎上にのるのはUWF。私は1・2の三四郎 2で格闘技ファンが戯画化されていたことに快哉をあげた旧プロレスファンであったが、UWFもイノキイズムのカルトと捉えれば根は同じか。「私、プロレスの味方です」のバランスの取れたファン目線が今となっては好ましい。
 日本人はプロレスを相撲のアナロジーと捉えているのかもしれない。異形の巨人が繰りひろげる神事と考えれば、猥雑で豊かな方がスポーツ的な明快さよりも相応しいのかもしれない。イノキイズムもプロレスの祝詞だったのかもしれないし、今、脱洗脳されて呆けている私たちも大きなストーリーの一部なのかもしれない。

江藤淳という人 福田和也 新潮社 2000/06

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from 「エレクトラ―中上健次の生涯」 高山 文彦著 文藝春秋社 2007.11 - いもづる読書日記

to 文学と非文学の倫理 - はてなキーワード

 図書館で吉本隆明江藤淳の対談「文学と非文学の倫理」を借りたのだがなかなか読めない。江藤淳というひとについて勉強しようと思って本書を読んだ。江藤淳は「白昼堂々小林秀雄の舞台を奪った」(150ページ、坂本忠雄氏の言)文芸評論家であり、その相貌や業績は本書において様々に活写されている。
 ながく江藤的な保守思想がどういうものか解らなかった。本書には下記の様にある。「近代思想が、つまり戦後日本の顕教としての民主主義が実現するのは全ての『被治者』を『治者』に引き上げる事であるはずだったが、戦後はそれを実現しなかった。国家を声高に批判しながら、その庇護だけは抜け目なく手に入れることが、戦後日本の民主主義だった。(中略)だが、放埓の傍らで、『被治者』たちを覆っていた甘皮は徐々に剥ぎとられて。崩壊してゆき、彼らは何者にも守られていない事を認めざるを得ない『新事態』に直面する。
 作家は(中略)好むと好まざるとにかかわらずなんらかのかたちで、『治者』の不幸な役割を引きうけるか否かという場所に追いつめられているように見える。『被治者』の姿勢に安住することは、概念と素朴実在論の世界に固執して、自己の内外におこりつつあることから眼をそらし、結局現代を無視することになるであろう。しかし逆に、『治者』の不幸を引きうければ、作家は別種の、おそらく前人未到の難問に出逢わなければならない。」(126ページ)

 つまりノブレスオブリージュということかなと思うが、かくの如き軽蔑と嫌悪の連鎖は、悪化する躁うつ病のように始末に負えない。自分が全くノーブルな人ではないからそう思うのだけれど。

 

韓国からみた古代日本 (古代の日本と韓国) 學生社 1990/8/1

 

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from 加耶と倭 韓半島と日本列島の考古学 (講談社選書メチエ) - はてなキーワード

to 倭国の時代 (ちくま文庫) - はてなキーワード

近所の図書館にシリーズ「古代の日本と韓国」というのが何冊かあったので、13巻を読んでみた。駐日大韓民国大使館文化院文化講座をまとめた双書だそうである。各巻のタイトルを紹介する。
1古代の韓国と日本
2古代日本と渡来文化
3古代の百済伽耶と日本
4古代の高句麗と日本
5古代の新羅と日本
6古代の高麗と日本
7考古学からみた古代の韓国と日本
民俗学からみた古代の韓国と日本
シャーマニズムと韓国文化
10韓国と日本の仏教文化
11韓国美術の伝統
12日本から見た古代韓国
13韓国から見た古代日本

「韓国から見た古代日本」には「日本神話の中の"韓国"」、「古代韓日両国の語文学」、「朝鮮半島から見た吉野ケ里遺跡」、「東アジアの中で見た古代韓国の金石文」の4編の論文が収められている。このなかで「日本神話の中の"韓国"」を興味深く読んだ。神功皇后新羅志向を「母郷回帰的」な「里帰り」とみる、これ自体が文学といえるような想像力豊かな論考であるが、「倭国の時代」における神功の海神ともとらえられるイメージと重なり合う部分も大きい。

ヒトはこうして増えてきた: 20万年の人口変遷史 (新潮選書) 大塚柳太郎 新潮社 2015/07/24

ヒトはこうして増えてきた: 20万年の人口変遷史 (新潮選書) - はてなキーワード

 

まえがきから。「出生、死亡、移動に着目してヒトの歴史を見直すと、四つのフェーズに大別できます。第一フェーズは、ヒトが誕生の地アフリカの中で人口を穏やかに増した時期です。第二フェーズは、ヒトの祖先たちがアフリカ大陸から西アジアへ、そして地球の広域へ移住した時期です。第三フェーズは、ヒトが定住生活をはじめ、その後に農耕と家畜飼育を発明し、自然界の食物連鎖の制約から逸脱を開始した時期です。現在までつづく第四フェーズの引き金になったのは、ヨーロッパではじまった産業革命と人口転換です。人口転換とは出生率も死亡率も高い『多産多死』から死亡率だけが低下する『多産少子』を経て、最終的に出生率も低下する『少産少死』に移行することを指しています。」本書の1~4章に相当する第三フェーズまではよく描けていて、興味深い。本書の眼目である第四フェーズと将来像を題材とする第五章、最終章はデータを重視したせいか散漫で読みづらい。特に人口転換のメカニズムについて統一的な見解が述べられず、報文の紹介に終わっている感もある。中国の施策史も知りたいところだ。

 生物史的な意味、人類史的な意味を語って欲しいと思った。

日本史を精神分析する―自分を知るための史的唯幻論 岸田秀, 柳澤健 亜紀書房 2016/12/24

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 本書はプロレス本を立て続けに出している柳澤健が日本史の話題を提供し、これを岸田秀がいつもの調子で斬っていくというメインパートの後、岸田の筆になる「日本はなぜ戦ったか」と題する補論が述べられる。ほぼ全編を埋め尽くしているのはコンプレックスがドライビングフォースになった歴史の展開であり、その昔「ものぐさ精神分析」を読んで感じた感銘は得られなかった。
 補論では、「日米戦争で日本人はあれほど大きな犠牲を払って必死に戦ったのになぜ負けたのか」が考察される。岸田によれば問題はよくいわれる物量の差などではなく、作戦の拙劣さ、日本軍の組織の問題、犠牲を払って得られる栄光というヒロイズム、強気論が支配しがちな空気に迎合する性質、当事者の責任の不明確等々であり、「日本軍を必然的に敗北へと導いた構造的欠陥は現代日本の省庁、政党、企業、大学など、あらゆる組織にそのまま温存されていて、日々、想像を絶する多大の被害をもたらしている」(275ページ)。ある意味、こういう言葉が聞きたかった。独立国家として立ち上がりたいという望みがあるなら、過去と真正面から立ち向かう覚悟が必要なのは明らかである。そうでなければ、戦後というぬるま湯の中にいつまでもとどまり続けるしかない。