昭和天皇とワシントンを結んだ男―「パケナム日記」が語る日本占領 青木冨貴子 新潮社 2011/05

昭和天皇とワシントンを結んだ男―「パケナム日記」が語る日本占領 - はてなキーワード

占領史追跡: ニューズウィーク東京支局長パケナム記者の諜報日記 (新潮文庫) - はてなキーワード

 

TO GHQと戦った女 沢田美喜 (新潮文庫) - はてなキーワード

敗北を抱きしめて〈上〉―第二次大戦後の日本人 - はてなキーワード

敗北を抱きしめて〈下〉― 第二次大戦後の日本人 - はてなキーワード

 

 コンプトン・パケナムは1893年日本生のイギリス人で、アメリカ占領期の日本でニューズウィーク誌の記者として活躍した。パケナムはマッカーサー公職追放財閥解体政策を「日本で最も活動的で能率がよく、経験豊かで教養もあり、国際感覚をあわせもつ層、まさに最もアメリカに協力的な層が切りすてられることになった」(37ページ)と批判し、怒りを買った。アメリカに一時帰国した際、日本への再入国をゆるされないほどであった。パケナムはトルーマン大統領の助力もありふたたび日本で記者生活を続けることになったが、このことよりアメリカ政府のエージェントでもあったのではないかと想像されている。
 パケナムは日本の再軍備に消極的だった吉田茂首相を批判し、鳩山一郎岸信介といった当時のニューリーダーとの人脈を築いていった。1951年、後に米国務長官となるフォスター・ダレスが来日した際、鳩山一郎との極秘会談をセッティングしたりした。こうした活動の中で友人であった宮内府式部官長松平康昌を通じて、昭和天皇からダレスへのメッセージがもたらされた。それは「有能で先見の明がある善意の人々の多くが自由の身になれば、世のために貢献することができるでしょう」(143ページ)というものであった。「吉田もマッカーサーも通り越して、昭和天皇は独自外交の一歩を踏み出したのである」(140ページ)。
 著者は「岸という人間が(中略)旧軍の軍国主義的な体質を色濃く引きづった人物」、「沖縄に負担を残したまま、”密約”を結んで、国民には秘密主義で明かさず、反共の防波堤として米国と密接な関係をもつことを何より第一にしたのが岸であった」(236ページ)と述べる。この時期に制度設計された日本の防衛政策は当時の矛盾を内包したまま現在まで続いている。一方で日本の再軍備を批判する側の「アジアのスイスたれ」(138ページ)という主張にパケナムは「一億玉砕などを叫んだ戦前のスローガン同様のたわごと」と断じている。日本人が主知的であるがゆえに現実を見誤った判断をしがちであるという指摘かもしれない。現実的で、国民の最大幸福を目指した、より開かれた議論が必要だと考えるが。