書き換えられた聖書 バート・D・アーマン 著 ちくま学芸文庫 2019/06/10

筑摩書房 書き換えられた聖書 / バート・D・アーマン 著

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一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教 (集英社新書) 内田樹, 中田考 集英社 2014/02/14 - いもづる読書日記

 

聖書の誤写と改ざんに関する本。著者は米国の聖書研究者。本書の「はじめに」には熱心なキリスト教徒(福音派)が懐疑的な聖書研究者に変貌していった自分史が語られている。いわずもがなだが、なぜアメリカ人は習俗としても地理的にもなんら関係のない地中海世界の宗教を自分たちのもののように考えられるのか。なぜここまで無神経で鈍感なのか、こういう自伝的な文章を読むと考えてしまう。
多分、「書物としての新約聖書」を読んで以来だと思うが(磯山雅教授が紹介していたので)、聖書の成立史に興味がある。人間の魂の考古学のようなものだと思う。本書で述べられる「本文批判」や写本の色々については「書物としての~」で既知の話であったが、ちょっとハッとしたのは次の箇所だ。「伝承されたテキストに幅広い異文が存在することによって、キリスト教の信仰がただ聖書のみ(プロテスタント宗教改革の教義である『ただ聖書のみ』だ)に基づくことは不可能であることが明白になる(中略)。一方、信仰には(カトリックの)教会に保たれた使徒伝承が必要であるというカトリックの教えは正しいに違いない、というわけだ。」(170ページ)プロテスタントがラジカルだったことがわかるし、思想の暴走の典型のようにも見える。習俗と関連した「自分たちの宗教」に相対的に近いカトリックの方が好ましくも感じられる。
キリスト教世界宗教になった理由はその構造の中にあると思うが、第6章で展開される、ユダヤ教徒の関係、マルキオン派、グノーシス派を超克することでその強固な構造を獲得したと考える。しかし、そうすることでイエス・キリストの持っていた怒りや異化作用が除かれ、生々しさが失われた。視点を変えることで見え方が変わってくる楽しさが聖書をめぐる議論にはあると思う。もちろん信者ではないからこんな暢気なことが言えるのだが。