持統天皇-壬申の乱の「真の勝者」 (中公新書) 2019/10/16 瀧浪 貞子

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 天武天皇の皇后であり、結果的にそののちの日本国の進む道を決定した持統天皇の評伝。これまで天智天皇の皇太弟であった天武天皇は、余裕で大友皇子を打倒して政権を奪還したように考えていたが、本書に描かれた経緯は薄氷を踏む展開で、まさに危機一髪、起死回生といった感がある。乙巳の変(645年)で蘇我入鹿が討たれて以来、蘇我倉石川麻呂の自害(649年)、孝徳天皇(軽皇子)の死去と斉明天皇重祚(654年)、有間皇子の処刑(658年)と陰謀の渦巻くなか、殺るか殺られるかという環境をサバイブしてきたのが天武ー持統のご夫婦だったわけだ。著者は当時の皇位継承のメカニズムを次のように解説する。30歳未満の皇族には皇位継承資格がなかった、兄から弟への継承が一般的だった、女帝が即位した場合その子供が直接継承することは忌避された、皇位継承者は群臣の支持を得られなければならなかった。天智天皇がなかなか即位せず斉明天皇重祚した理由もこの辺にあったようだ。「中大兄皇子の真意は、間人皇后(孝徳天皇の皇后、引用者注)の擁立にあったとわたくしは考える。(中略)それは人びとの非難を回避しつつ、女帝間人の下で中大兄皇子が引き続き皇太子の地位を保持するためであったと考える。(中略)娘である間人皇后の胸中も、息子中大兄皇子の真意も汲んでいた母皇極(=斉明、引用者注)は、すべてを飲み込み、老体にムチ打って重祚したのであった。」(72ページ)後に、持統天皇は実子の草壁王子への継承を願い、天武天皇の死後大津皇子を処刑し、自らが称生(即位せず政務をとること)し、草壁の王子が死去してからはその子の文武天皇への継承を企図して即位した。そして、日本書紀万葉集の編纂を通じて父子継承の正当性を強く提唱するに至った。むろん文武天皇のあとも元明(文武の母、持統の姉)、元正(文武の姉)を経て聖武(文武の子)へと続くので、全く同じようなことを繰り返して行くのであるが。
 壬申の乱において天武が吉野、伊勢、桑名、不破と転進していくことから、中部地方の勢力を背景に挙兵したと考える人も多く、天智と天武が兄弟であるというのもフィクションだとする説もあるようだ。天武は即位後、娘の大伯皇女を伊勢斎王として派遣し、伊勢神宮整備に力を注いだ。伊勢が東国経営に重要だったこともあるが、天武ー持統のスピリチュアリティにも興味が持たれる。本書は様々な視点を与えてくれるが、政治的なバランスも考えたのか、この点迂遠な感じもする。