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チベット・曼荼羅の世界 : その芸術・宗教・生活 東北大学西蔵学術登山隊人文班報告 色川大吉編 小学館 1989 - いもづる読書日記
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色川大吉歴史論集 近代の光と闇 色川大吉 日本経済評論社 2013年01月 日本経済評論社 - Books
「色川大吉歴史論集近代の光と闇」の最終章は「網野善彦と『網野史学』」と題され、東大国史学科の後輩である網野について述べている。色川は「肥大した網野幻想はいちど砕かれた方がが良いであろう。」とまで書くのだが、その効果はあったようで、私も少し冷静に「日本の歴史を〜」を読んだような気がする。
本書は単行本として出版された正編と、5年後に出版された続編を合本としたもので、著者の年来の主張をまとめたものになっている。「百姓は農民ではない」、「農業中心の社会観が海民の役割を矮小化してきた」、「異人、悪党など農本主義的な世界像から外れる人たちの役割」などなど。今回、私は商業の役割を面白く読んだ。「このように金融行為が神のものの貸与、農業生産を媒介とした神への返礼、という形で成立したことを確認しておきたいと思います。(中略)交易にせよ金融にせよ、俗界をこえた聖なる世界、神仏の世界とかかわることによってはじめて可能であったのですから、(中略)中世では商人、金融業者は、いずれも神や仏の直属民という形で姿を現しています。」(61ページ)「かつてマジカルな古い神仏の権威に支えられていた商業、交易あるいは金融の世界が変化してきたわけで、鎌倉新仏教は、かつての神仏と異なり、新しい考え方によって商業、金融などに聖なる意味を付与する方向で動きはじめていたのではないかと考えることができると思います。(中略)贈与互酬を基本とする社会の中で、神仏との特異なつながりを持った場、あるいは手段によって行われていた商品交換や金融が、一神教的な宗派の祖師とのかかわりで、行われるようになってきたと考えられます。」(78ページ)「江戸時代の社会では『士農工商』といわれたように、手工業者、商人や金融業者は、社会的に高い地位をあたえられていません。(中略)このように商業、交易、金融という行為そのもの、あるいはそれにたずさわる人びとの社会的な地位の低下と、宗教が弾圧されてしまったということとは、不可分なかかわりをもっていると考えられます」(79ページ