あのころ、早稲田で 文藝春秋 2017.4 中野 翠

『あのころ、早稲田で』中野翠 | 単行本 - 文藝春秋BOOKS

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唐牛伝 敗者の戦後漂流 佐野眞一 小学館 2016/07/27 - いもづる読書日記

吉本隆明という「共同幻想」 呉智英著 筑摩書房 2012年 - いもづる読書日記


小熊英二「1968」という70年安保を題材にした本がある。難しい問題に正面が取り組んだ力作だと思うが、団塊の皆さんからは評判が悪い。関連書(反論書?)をいくつかリストアップしてあったのだが、その一冊が本書である。著者は早稲田大の社研だったそうだが、のんびりした風景に拍子抜けしてしまった。「1968年は晴れ着で明けた 1月の4日とか5日だったと思う。私はクラスメートの女子・S子さんといっしょに、振り袖姿で自由が丘の『モンブラン』にケーキを食べに行った。」(140ページ)本書の呉智英氏もなんだかかわいらしい。
著者は『全共闘白書』(新潮社、1994年)という本について、「あまり好もしい読み物ではなかった」と書いている。「全共闘運動を美化したいという気持ちはわかるけど、それでも現実的に、醒めた目で全共闘を見直せば、『負けた』としか思えないものだったのではないか?あの運動の先にあったものは、世にもおぞましい『連合赤軍』だったのだから。」(191ページ)活動を先鋭化したことが社会からの離反を生んだ、べ平連路線で行けばよかったのに、というのが小熊本の結論だったように思うが、そうした先鋭化が活動に本来的に内包されたものだったのでは?というのが私の疑問だ。
内田樹は最近次のような文章を発表している。「これまでも繰り返し述べてきた通り、統治コストと国の復元力はゼロサムの関係にある。統治コストを最少化しようとすれば国力は衰え、国力が向上すると統治コストがかさむ。考えれば当たり前のことである。(中略)日本の場合、60~70年代の高度成長期は国力向上のために、国民に気前よく自由を譲り渡した時期である。『一億総中流』はそれによって実現した。おかげで私は10代20代をまことに気楽な環境の中で過ごすことができた。けれども、その時期は同時に市民運動、労働運動、学生運動の絶頂期であり、革新自治体が日本全土に生まれ、あきらかに中央政府のグリップは緩んでいた。(中略)ふつうは中産階級が没落して、階層の二極化が進み、貧困層が増えると、社会情勢は流動化し、反政府的な機運が醸成され、統治が困難になるはずだけれども、日本はそうならなかった。市民たちはあっさりと政治的関心を失ってしまったのである。『自分たちが何をしても政治は変わらない』という無力感に蝕まれた蒼ざめた市民たちほど統治し易い存在はない。」(http://blog.tatsuru.com/2020/10/30_1049.html学生運動は『コスト』だったのだ。それがあったこと自体が時代のアクティビティの象徴で、勝ち負けが問題じゃないのだと考えると少しは救いになるかな?団塊の皆さん。