東アジアの動乱と倭国 (戦争の日本史1) 吉川弘文館 2006/11/16 森公章

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倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア 中公新書2470 中央公論新社 2018.1河内春人著 - いもづる読書日記

独学で歴史家になる方法 日本実業出版社 2018.11 礫川全次著 - いもづる読書日記

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あとがきには「本書では有史以来の日本古代の戦争と外交のあり方を描くべく、663年の白村江(はくそんこう)の敗戦に至る日本の東アジア情勢への対応と戦争への関与の歴史を考察した。白村江の戦そのものに関しては、前著『「白村江」以後ー国家危機と東アジア外交ー』(講談社選書メチエ、1998年))で整理したので、今回執筆の機会を頂戴し、前著では概観に留めた白村江以前の様相を究明することを心がけたつもりである。」とある(259ページ)。百済新羅高句麗の勢力争いに翻弄される伽耶諸国の様子が活写されている。多くは日本書紀を典拠としているが、「百済新撰」からの引用等、史料批判を行って信頼度の高い記述のようである。
541年と544年に百済聖明王により「任那復興会議」が開催されているらしい。この経緯をたどると「日本府」の性格がおぼろげながら見えてくる。
(イ)「日本府」は百済新羅伽耶地域への進行が進む六世紀に登場する。
(中略)
(二)構成員には日本府大臣ー日本府臣の序列があり、前者には倭の中央豪族が就任(中略)。後者には吉備の臣などの地方豪族がおり、その下に(中略)伽耶系の人びと(倭人との混血児を含む)が実務官として実権を握るという実態であった。
(中略)
(ヘ)倭国に遣使することもあるが、倭国の指示を受けるなどの直接的なつながりはなかったようである。(164ページ)。
当時、倭国は中央集権がととのっておらず、特に外交に関してはそれまで半島と交渉のあった豪族が独自に行う部分が大きかった。任那日本府はどちらかというと半島の外交関係が生み出した、バーチャルとは言わないまでも、政治的な概念で、倭国の植民地などではなかったようだ。ただ、倭国は半島のパワーゲームに、半島との微妙な距離感を利用として、隠然と参加していたことは間違いないようだ。「『白村江』以後」も是非読んでみなくてはならない。