証し 日本のキリスト者 最相葉月 KADOKAWA 2023年01月13日

「証し 日本のキリスト者」最相葉月 [ノンフィクション] - KADOKAWA

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【新装版】日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか 小室直樹 徳間書店 2021/12/29 - いもづる読書日記

韓国はなぜキリスト教国になったか 鈴木 崇巨 著 春秋社 2012/09/30 - いもづる読書日記

ふしぎなキリスト教 講談社現代新書 橋爪大三郎 大澤真幸 2011年05月18日 - いもづる読書日記

書き換えられた聖書 バート・D・アーマン 著 ちくま学芸文庫 2019/06/10 - いもづる読書日記

最相葉月さんは「絶対音感」が面白かった。本書は135人ものキリスト者にインタビューした1000ページを超える大著。ひとつひとつが重く、拾い読みができない。「この本について」には、「ここにはまぎれもなく、二十一世紀初頭の日本のキリスト教の実相があり、一人ひとりの語る信仰生活は、現代社会が抱える問題と相似形にあると実感している。」(15ページ)とあるが、禁教時代、維新、戦争、敗戦、学生運動といった近現代日本の縮図が投影されている。東日本大震災、コロナ禍、ウクライナ戦争といった最近の状況も、容赦無く教会に問題を突きつける。
コンタクトという映画があった。ジョディ・フォスター扮する地球外生命の研究者の理解者がカトリックの団体に所属していたように思う。これはもちろんフィクションだが、ありそうなことだと思わせるところがキリスト教にはある。この本では、日本にもカトリックプロテスタント諸派、英国教会(聖公会)、東方教会といった宗派が活動していることがわかる。それぞれの宗派の宣教者が、母体組織のバックアップを受けていることは間違い無いだろう。キリスト教のような既存宗教が現代人が失ったスピリチュアリティ埋め草として期待されると思うが、これは宗派の世界戦略に組み込まれることでもある。
正直これだけの紙幅を費やして著者が何が言いたかったのか判然としない。「あとがき」で、無教会派の荒井克浩氏の信仰義認論を紹介している。「光り輝く復活ではついていけない。癒されないまま苦しむイエスだからこそ、ついていける。癒されない神が共にいてくださることで、神に受け入れられていると知る。それこそが義であり、復活者との出会いである。」(1086ページ)キリスト者の独善に対応する有効な処方だと思うが、これは無教会派だから言えることなのでは?と思う。既存宗派の枠内でこうした神学論争は可能なのだろうか?ここまで思想を純化させていくのは日本的な現象なのだろうか?

網野善彦対談集 2 多様な日本列島社会 山本幸司編 岩波書店 2015/02/20

多様な日本列島社会 - 岩波書店

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日本の歴史をよみなおす(全) 網野善彦著 ちくま学芸文庫 筑摩書房 2005/07/06 - いもづる読書日記

色川大吉歴史論集 近代の光と闇 色川大吉 日本経済評論社 2013年01月 - いもづる読書日記

アジアの中の日本―司馬遼太郎対話選集〈9〉 (文春文庫) 司馬遼太郎 文藝春秋 2006/11/01 - いもづる読書日記

本書は網野善彦対談集全五巻の第二巻。歴史学者、考古学者、民俗学者に混じって、司馬と宮崎駿が収められている。
司馬遼太郎という人はなかなか大した人だ。司馬史観というか大河ドラマ史観は相対化されなければならないと思っているが、本書の司馬は網野を相手に博覧強記ぶりを発揮している。
「司馬;基本的には『室町に儒教なし』と考えてもいいかもしれません。むろん書物としての儒教はあった。(中略)しかし、社会習慣としての儒教はなくて、日本古来の行儀作法だけで社会の秩序を安定させていた。(中略)網野;これは別の角度から申しますと、室町以降、江戸まで含めて、結局、日本人の場合、自分たちの生活を律する一つの宗教的な枠組み、倫理を持たないでここまできた。よく言われますように、日本人には宗教なしということですね。(中略)それがいい、悪いというのではなくて、現実にそういう事態を日本人の社会が生んだということの持っている問題が、何かいまだに尾を引いているような気がして仕方がないんです。ですから、おっしゃるような意味で、室町時代が、まさに、現代の日本人の生活ーもっともそれがいまや壊れつつあるのかも知れませんがーの当面の出発点になることはいろんな面からみて明かなことだと思います。」

色川大吉歴史論集 近代の光と闇 色川大吉 日本経済評論社 2013年01月

日本経済評論社 - Books

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日本の歴史をよみなおす(全) 網野善彦著 ちくま学芸文庫 筑摩書房 2005/07/06 - いもづる読書日記

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多様な日本列島社会 - 岩波書店

本書の第一章は「近代の光と闇」とされ、「光」として宮沢賢治を、「闇」として麻原彰晃を扱う、としている。宮沢賢治は昭和恐慌、治安維持法による言論封殺という暗い時代を背景にしている、という指摘は新鮮だ。早逝した賢治に対し「北原白秋にしても萩原朔太郎にしてもそうですが、いずれ、どこかで妥協し、戦時下の重苦しい雰囲気の中で自分をごまかすか、沈黙するか、あるいは転向してまうか、していたのです。その中で宮沢賢治が闇夜の星のように光っていた。」(4ページ)筆者は農村運動の経験からこう書く。「百姓の狡さ、古さ、愚かさ、これは賢治の壁ですね。賢治のぶつかっていた壁でもあるのです。(中略)共同体というのは個人へのしめつけや干渉ばかりでなく、一人一人を生かす道具でもあったのです。もちろん地主制の下の村はぞっとするような陰惨な差別や搾取の構造を含んでいますから、これらの社会の仕組みの全体を一所懸命見ようとしています。」(12ページ)戦中派である筆者の語る宮沢賢治はより具体的で、立体感を持った像を提示している。
一方、麻原彰晃については、事件当時喧しかったワイドショーの言説と本質的な違いがあるだろうか。「麻原と教団の転換点になった1990年前後は、米ソの対決が終わり個別の近代国家の限界が見通されるようになった世界史的な画期であった。この時期になぜ、麻原が『国家』との対決や、『武装化』の方向に向き変えたのか」(78ページ)「天皇制を解体するはずの者が、なぜまた同質の位階制や拘禁制を自らの中に再編するのか。(中略)歴史の刻印というものの執拗さ、深さをあらためて私たちに思いしらせる。(中略)さらに、その底部に、世紀末近代への手の施しようのない虚無感が暗い淵のように口をあけ、泥流のように流れているのではないかと私は恐れる。」(84ページ)深刻な慨嘆調なのだが、結構矛盾も感じるし、「昭和」の一言で処理されてしまいそうな言説だ。わからないなら語らなければよかろうに。

日本の歴史をよみなおす(全) 網野善彦著 ちくま学芸文庫 筑摩書房 2005/07/06 

筑摩書房 日本の歴史をよみなおす(全) / 網野 善彦 著

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チベット・曼荼羅の世界 : その芸術・宗教・生活 東北大学西蔵学術登山隊人文班報告 色川大吉編 小学館 1989 - いもづる読書日記

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色川大吉歴史論集 近代の光と闇 色川大吉 日本経済評論社 2013年01月 日本経済評論社 - Books

色川大吉歴史論集近代の光と闇」の最終章は「網野善彦と『網野史学』」と題され、東大国史学科の後輩である網野について述べている。色川は「肥大した網野幻想はいちど砕かれた方がが良いであろう。」とまで書くのだが、その効果はあったようで、私も少し冷静に「日本の歴史を〜」を読んだような気がする。
本書は単行本として出版された正編と、5年後に出版された続編を合本としたもので、著者の年来の主張をまとめたものになっている。「百姓は農民ではない」、「農業中心の社会観が海民の役割を矮小化してきた」、「異人、悪党など農本主義的な世界像から外れる人たちの役割」などなど。今回、私は商業の役割を面白く読んだ。「このように金融行為が神のものの貸与、農業生産を媒介とした神への返礼、という形で成立したことを確認しておきたいと思います。(中略)交易にせよ金融にせよ、俗界をこえた聖なる世界、神仏の世界とかかわることによってはじめて可能であったのですから、(中略)中世では商人、金融業者は、いずれも神や仏の直属民という形で姿を現しています。」(61ページ)「かつてマジカルな古い神仏の権威に支えられていた商業、交易あるいは金融の世界が変化してきたわけで、鎌倉新仏教は、かつての神仏と異なり、新しい考え方によって商業、金融などに聖なる意味を付与する方向で動きはじめていたのではないかと考えることができると思います。(中略)贈与互酬を基本とする社会の中で、神仏との特異なつながりを持った場、あるいは手段によって行われていた商品交換や金融が、一神教的な宗派の祖師とのかかわりで、行われるようになってきたと考えられます。」(78ページ)「江戸時代の社会では『士農工商』といわれたように、手工業者、商人や金融業者は、社会的に高い地位をあたえられていません。(中略)このように商業、交易、金融という行為そのもの、あるいはそれにたずさわる人びとの社会的な地位の低下と、宗教が弾圧されてしまったということとは、不可分なかかわりをもっていると考えられます」(79ページ

チベット・曼荼羅の世界 : その芸術・宗教・生活 東北大学西蔵学術登山隊人文班報告 色川大吉編 小学館 1989

チベット・曼荼羅の世界 / 色川 大吉【編】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア

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ザイルの二人 満則・秋子の青春登攀記 (山渓ノンフィクション・ブックス)鴫 満則 鴫 秋子 1983.1 山と渓谷社 - いもづる読書日記

八九六四 「天安門事件」は再び起きるか 安田峰俊 KADOKAWA 2018/05/18 - いもづる読書日記

色川大吉さんで何か、と思ったらこの本が引っかかってきた。1986年に東北大学チベットに登山隊を派遣し、ニェンチェンタンラ峰(7162m)を初登頂したが、同時に学術調査を行う学術班を派遣した。(同時期に大学院にいた私は登山の方の報告会に出席したような記憶がある。)色川氏はその学術班人文班の班長で、その成果である本書の編者でもある。京大の山岳部といえば今西錦司、西堀栄三郎、梅棹忠夫といった名前がすぐに出てくるが、本書も色川(旧制二高から東大)、山折哲雄といった豪華な面々が並ぶ。きっと同じ釜の飯を食べたホモソーシャルな関係で結ばれていたのであろう。
このチベット訪問の直後、1987年9月と1988年3月に「チベット暴動」が起きる。「1959年のラサ蜂起(チベット動乱)のあと中国軍の徹底的な弾圧をうけ、さらに文化大革命による追い打ちをうけて、大半の寺院が破壊されたにもかかわらず、チベットでは宗教が根絶やしにされることはなかった。科学的世界観を誇るマルクス・レーニン主義と、中国共産党による解放政策の”恩恵”によっても、チベット人の内面から仏教への信仰を追いだすことはできなかった。それは中国の統治のしかたがまずかったからでも、チベットの人民が愚昧だったからでもない。民族問題を軽視し、『革命』をおしつけ、宗教の本質を理解できなかった外来支配者たちの認識の誤りによるものだと私は思う。」(291ページ)
次のような記述にも時代を感じる。「日本人の中国観はたいへん独特である。(中略)右から左までの主流が熱烈な親近感を寄せるようになっている。それは日本人の過去の中国侵略への罪障感と、かつての東アジアの文化大国であった中国民族に対する畏敬との複合であろう。」(10ページ)牧歌的だった。

暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ 堀川惠子 講談社 2021年07月07日

『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』(堀川 惠子)|講談社BOOK倶楽部

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日本海軍はなぜ滅び、海上自衛隊はなぜ蘇ったのか 是本信義 幻冬舎 2005/10 - いもづる読書日記

丁度サミットが開催されている広島市の宇品は、旧陸軍の船舶司令部が存在したところ。ここから中国やマレー半島へ軍隊が派遣された。広島が原爆による攻撃目標になった主な理由がこの宇品港であった。陸軍と海軍の協力は限定的で、陸軍の海上輸送は陸軍が独自に行う必要があった。ガダルカナル島インパール作戦で評判の悪い旧軍の兵站であるが。マレー侵攻は一年半をかけた緻密な計画で、一気にインドシナ半島、マレーシア、シンガポールインドネシアを落として行った。ただ、結果オーライの博打の部分も大きかったようで、「圧倒的な船腹不足を証明する科学的データは排除され、脚色され、捻じ曲げられた。あらゆる疑問は保身のための沈黙の中で『ナントカナル』と封じられた。」(220ページ)緒戦の勝利を継続性のある国家経営に結実させる知性が足りなかった。持久戦に弱い、官僚的で臨機応変の対応が苦手という日本の特徴は、むしろ不可知の未来を見ようとする努力の不足によるものかもしれないと思った。
船舶司令部は原爆投下後の一週間、災害復興に獅子奮迅の活躍をした。しかし、解散時には機密書類の焼却を行なっている。これも日本人の悪弊である。万世一系どころか帝国は77年しか保たなかったのだ。後世の批判を受けることが為政者の名誉だと思わなければならない。
著者は軍事史家マーチン・ファン・クレフェルトを引いてこのようにいう。「戦場で命を失うかもしれないという抑圧状態に置かれた集団はより団結を強め、『人々は自分自身であることをやめる一方で、同時により大きく力強い何かの一部になる。自分自身がより大きく力強い何かの一部であると感じることは、そう、まさに喜びをもたらす。』」(246ページ)軍隊こそホモソーシャルの典型的な集団だ。ホモソーシャルの基盤には不可避的に抑圧が存在する。そういう意味では戦後体制も戦前体質を引きづっているし、新自由主義時代に入って、抑圧は強まっている。

「帝国」ロシアの地政学 「勢力圏」で読むユーラシア戦略 小泉悠 2019/06/25 東京堂出版

「帝国」ロシアの地政学 - 株式会社 東京堂出版 限りなく広がる知識の世界 ―創業130年―

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丹羽宇一郎 戦争の大問題 丹羽宇一郎 東洋経済新報社 2017/08/04 - いもづる読書日記

アジアの中の日本―司馬遼太郎対話選集〈9〉 (文春文庫) 司馬遼太郎 文藝春秋 2006/11/01 - いもづる読書日記

かくしてモスクワの夜はつくられ、ジャズはトルコにもたらされた 二つの帝国を渡り歩いた黒人興行師フレデリックの生涯 白水社 ウラジーミル・アレクサンドロフ 著 2019/09/26 - いもづる読書日記

今般のウクライナ戦争に関する本も多数出版している著者ではあるが、旧著を読んでみた。2019年刊だが現在も変わらないロシアの戦略が描かれる。2014年のウクライナ危機(クリミアの併合)、バルト3国、シリア、北方領土北極海でロシアがとってきた行動が材料となる。ロシアあるいはプーチン大統領の「主権国家」感について、著者はこのように書く。「政治・軍事同盟に頼る国は同盟の盟主(『上位の存在』)に対してどうしても弱い立場に立たざるを得ず、それゆえ完全な意味ででの主権を発揮できないということだ。」(59ページ)「ある大国が周辺の国々に対して権力関係を行使しうるとき、そのエリアは勢力圏と呼ばれることが多い。(中略)すでに述べたロシアの主権観に即して言えば、大国=『主権国家』を中心とするヒエラルキーの及ぶ範囲が勢力圏であるということになる。」(68ページ)ウクライナはロシアの勢力圏であるという意識、日本は主権国家ではないという認識がわかる。そして、「ソ連崩壊後、『ロシア』の範囲をめぐって試行錯誤を繰り返したのちにロシアが見出したのは、旧ソ連諸国を消極的ではあっても『勢力圏』として影響下に留めることであった。このような論理の帰結が2014年のウクライナへの介入であり、それに続く西側との対立の再燃であったと言えよう。」(262ページ)